記者・文責 並河岳史 授業のはじめに先生が言いました。 「最近のロシア関連のニュースで何があった?」 窓際の席にいつも並んで座っている社会福祉学部の三人のうちの一人が答えました。 「−−−−−」 なんて言ったのかは覚えていません。ちょっと内容を想像してしまう面白そうな題だった気がするのですが、ニュースの中身まで突っ込まなかったので忘れてしまったようです。彼女は岩手日報のロシアに関係する記事を切り抜いて、毎日スクラップブックに集めているので、そういう珍しいニュースを知っていたのだと思います。 岩手日報に掲載されているニュースは、日本国内の主な記事は岩手日報の記者が書いていますが、海外の記事などは他社の記者が書いた記事を元に編集したものを掲載しています。これは岩手日報に限らず全国紙でもそうで、たとえば毎日新聞の海外の記事の最後にはよく(ロイター共同)などと書かれていたりします。このように新聞がフリージャーナリストなどを多く抱える会社(?)から記事を買うシステムのおかげで、発行部数が少ない地方紙でも海外の詳細なニュースを読むことができるそうです。 日本の新聞というメディアは、戦時中の情報統制がしやすいように一県一紙制が実施されたせいで地方紙が少ないそうです。それ以前は各県に三つとか四つも新聞があったということなのでしょう。また、全国紙の五大紙が非常に大きなシェアを占めているのも日本の新聞メディアの特徴だそうで、海外にこんな国はないそうです。マスメディアは第4の権力と言われ社会に大きな影響力を持っていますが、今の日本の状態も情報操作がしやすかったりいろいろと問題もあるのでしょうか。 ウランという鉱物が発見されたのは1789年とされています。ウランの名は天王星にちなんでいます。 1896年には、ウランが放射線らしきものを出してフィルムなどを感光させる効果があることが発見されました。 1930年に、ドイツで核分裂という現象が発見されれ、やがて核分裂が連鎖反応を起こすことがわかりました。核兵器をはじめて開発したのは知ってのとおりアメリカですが、アメリカで原子力爆弾を開発した科学者の多くはヨーロッパから亡命してきた人間であり、ヒトラーがユダヤ人を弾圧していなければ、ドイツに核をもたらしていたかもしれない人々でした。当時の物理学界の重鎮にはユダヤ人が多くいて、ドイツ国内に住んでいた科学者もたくさんいました。彼らに加えられた不当な仕打ちが、科学者の心をドイツから離れさせたのです。 マンハッタン計画と名づけられた原子力兵器の研究は戦争終結寸前に成就しました。原爆実験成功の砲がアメリカ大統領トルーマンにもたらされたのは、連合国の首脳が集まっているポツダム会談の最中である7月16日でした。この時点でアメリカがこれ以上人的損害を出さずに日本を降伏させられることが見えていたので、アメリカとしてはヤルタ会談で約束を取り付けたソビエト連邦の対日参戦はもはや必要なくなりました。もちろん、スターリンに対して手札を見せるようなことはせず、ソ連がもたもたしている間に一気に戦争を終わらせて、戦後処理を西側に有利に進めるつもりでした。冷戦ははじまっていたのです。しかし、マンハッタン計画はイギリス経由でソ連の諜報機関НКГБに流れていました。一週間後にはスターリンも原爆開発成功を知り、対日参戦の準備を急ぎました。あとは知ってのとおりです。 原爆の研究資料もかなり詳細な物がソビエトに流れていました。ソビエト連邦が最初に開発した原爆は、長崎に落とされたプルトニウムを分裂させる「ファットマン」とそっくり同じ物だそうです。 第二次世界大戦でソビエト連邦は最も多い被害を受け、千万単位の死者を出しました。そのため、ようやく戦争が終わってからは国民の間にも指導者層にも、もう戦争はしたくない、こんな目に遭いたくないという気持ちが強くなりました。 戦争が終わった時、東西の対立ははじまっていました。そして、ソビエト連邦に対立するアメリカは唯一の核保有国でした。ソビエトには、味方となる国が一切ありませんでした。そのために防衛本能を刺激され、莫大な軍事費を投じて軍隊を強化しました。1948年にはやっと核開発に成功しました。 中国も帝国主義時代以降、ひたすら踏みつけられ続けた歴史を持つ国であるため、もう二度とそんな目に遭いたくないのでしょう。やはり莫大な軍事費を投入して軍隊を養っています。他の国がちょっとでも国内のことに文句をつけようものなら、「それは内政干渉だ」と厳しい声明を発します。 ← 次回(12/20)へ ← ロシア語とロシア事情Uの目次へ |