記者・文責 並河岳史 1925年、日本はシベリア出兵をあきらめて日ソ基本条約を締結しました。これは、日本とソビエト連邦がはじめて国交を樹立したことを意味しています。 しかし、攻撃的に勢力拡大を狙っていた日本と、日露戦争で失った中国での権益を取り戻そうとするソビエトは自然と対立していき、何度も国境紛争を引き起こします。 1937年の乾岔子事件でした。これは、日本人がある大きな川の中州で現地人に砂金を取らせていたところ、ソビエトが領土権を主張して、中州から出ていくように日本側に申し入れました。これに対して日本は特使をモスクワに派遣して抗議しましたが、川の名前を知らずにロシア語で呼んでしまい、論破されて引き下がりました。語学ができないと不利になるいい例だそうです。 1939年のノモンハン事件では、互いに宣戦布告をしていない国境紛争であるため事件と呼称されるものの、きわめておおがかりな戦闘が行われました。その結果、関東軍の一個師団が全滅、1万8千人が戦死しました。第一次大戦のヨーロッパ戦線を知らない日本は、戦車や飛行機などを使った近代戦を経験していませんでした。また、日露戦争で勝った相手であるためソビエト軍を侮っていました。 ノモンハンは、日本植民地の満州国とソビエト勢力圏下のモンゴルとの国境付近にありました。何度か小規模な小競り合いが起こって決着がつかないのに業を煮やした日本軍が、一個師団を派遣しました。それを察知したソビエト軍も相応の戦力を派遣しました。日本軍は偵察をろくにやりませんでした。なぜなら、偵察隊に遭遇した敵がおびえて逃げてしまうことを恐れたからです。現実にはそんなことはありえなかったでしょうが、日本軍の現実認識が甘かったのでしょう。結局、日本軍はソビエト軍の戦力を把握しないまま兵員を逐次投入し、武装の差にも圧倒されて一方的に負けてしまいます。なんとか生きて帰った日本軍の兵士は口を封じられました。 ノモンハン事件の惨敗を教訓に日本軍の武装は近代化されていきますが、日本人の思想に「物が足りなければ精神力で補え」というものがあり、負けたときの用意をするのは必勝の信念を揺るがすとして、戦闘の際には片道分の弾薬・食料しか持たなかったり、不測の事態に対応して様様な準備をすることさえ「逃げ道を用意して士気を下げる」行為として忌避されました。そして、アメリカ・イギリス軍との戦闘でも何度も無謀な戦い方をして多くの兵士が死んでいきました。 1936年に、日本とドイツはソビエト連邦に共にあたるため「日独防共」という約定を結びますが、1939年にドイツは単独で「独ソ不可侵条約」をソビエトと締結します。それでも1940年には日本とドイツとイタリアで三国同盟が結ばれます。それぞれの国がそれぞれの利害と思惑に従って外交活動を行ったので、非常にあいまいで危険な状態でした。 1941年の4月に「日ソ中立条約」が結ばれて日本・ソビエト連邦・ドイツの三国関係が落ち着いたかと思われましたが、同年6月にヒトラーは不可侵条約を破棄して独ソ戦に踏み切りました。広大な領土に兵員を分散させているソビエトははじめドイツ軍の電撃的な侵略に次々と都市を落とされて後退していきますが、42年の9月にはモスクワ近郊のボルゴグラードで勝利を収めてからは形勢が逆転して、あとは一方的にドイツ軍を追い返していきました。 日本とドイツの協力関係は続いていました。条約を一方的に破棄したドイツの同盟国である日本に対して、ソビエト連邦としては中立条約など無視しても構わない心情になっていたとしても不思議はありません。ノモンハン以後も国境での小競り合いがなくなったわけではないのでしょう。 1945年の2月にアメリカ・ソビエト・イギリスの三国の非公式首脳会談によって、戦後処理を取り決めた「ヤルタ協定」が取り交わされ、この協定でソビエトは対日戦線に参戦するかわりに千島列島を手にすることが決められました。この時には、もう冷戦ははじまっていました。同年の4月にソビエトは「日ソ中立条約」を延長しないことを表明しました。それでも、条約の有効期限はあと1年残っていました。 8月にアメリカが広島に原爆を落とした時に、ソビエト連邦は日本に対して宣戦を布告しました。参戦しなければ領土を獲得するのが事実上難しかったからです。実はそれ以前に日本はソビエト連邦に講和の仲介を依頼していましたが、すでに冷戦を意識していたソビエトにとってそんなものはどうでもよかったのです。 ソビエト連邦は日本の無条件降伏後も戦闘を続けました。満州では関東軍が素早く撤退していき、取り残された日本人の開拓民は現地人のリンチにあって殺されたり、ソビエト軍の捕虜になったり、そのまま残留孤児になったりしました。 ← 次回(12/20)へ ← ロシア語とロシア事情Uの目次へ |