記者・文責 並河岳史 КГБ(KGB、カーゲーベー)はソビエト連邦時代、国内に40万人、国境警備隊20万人を要する世界最大の保安組織でした。対外情報活動、対内保安活動、反体制活動取り締まりなどに分かれていて、具体的にどれほどの人員が諜報活動に携わっていたのかは定かではありません。 1954年にフルシチョフ政権下で成立し、1993年に長官がモスクワ騒擾事件の首謀者に加わっていたのをきっかけに解体・分割されました。しかし、それも名前を変え形を変えただけで、長らくロシアにあった「伝統」を受け継いでいるのです。 ロシアの諜報組織の起源は、1866年にぺテルブルグで生まれ、1880年にモスクワで組織された特別公安警察(オフランカ)で、帝政側に立って反体制運動を弾圧する目的で生まれた組織でした。 1917年の二月革命後にオフランカは廃止されますが、同年12月にはЧК(反革命・投機・サボタージュ・職権乱用と闘う全ロシア非常委員会、チェーカー)と名前を変えて、今度は共産党側のために働くようになります。 1922年にはГПу(国家政治保安部、ゲーペーウー)と名を変え、翌年にソビエト連邦憲法が採択されるとОГПу(合同国家政治保安部、オーゲーペーウー)が設立されます。 ОГПуはスターリンの指導下で凄まじい数の人民を虐殺した悪名高い組織で、スターリンの死後にКГБ(KGB)として再編されることになります。 КГБは国内の治安維持、国境警備、強制収容所の管理、諜報、防諜などを請け負いました。一般人に対して非常に大きな力を持っていたのはもちろんですが、強制収容所を管理することによって労働力を提供できるため、国内経済分野においても発言力を持っていました。 プーチンは1952年にレニングラードで生まれました。 1975年にレニングラード国立大学法学部を卒業。エリートコースを歩みました。映画に憧れたとは著書に書いていますが、在学中にКГБにスカウトされていたようです。 卒業後、КГБの防諜部門に入るコースを進んでいましたが、研修期間中に諜報部門に引き抜かれました。 諜報部門と防諜部門は、同じ組織の中でも仲が悪くなりやすいものです。なぜなら、二重スパイなどよくあることで、防諜のためには、諜報部門の人間を疑って監視しなければならないからです。 そのため、諜報部門と防諜部門との間での転属などはまずありえないことと思われていましたが、研修期間中とはいえプーチンが防諜から諜報に移れたのは珍しい例といわれているそうです。 プーチンは1985年〜90年(33歳〜38歳)の間、東ドイツに勤務します。外国での諜報活動はたいてい、情報収集担当と集めた情報を分析して本国に送る分析担当とに分かれて活動するそうですが、プーチンは両方の役割を一人でこなしていたそうです。有能な人なのでしょう。 プーチンはベルリンの壁崩壊に立ち会った後に本国に戻り、時代が変わることを予感してКГБを辞職します。そののちレニングラード国立大学副学長補佐、レニングラード市ソビエト連邦議長顧問などを務めています。 1994年から96年までの間はサンクト・ペテルブルグ市の第一副市長に就きます。金集めがうまいという理由で市長のソプチャクに重用されたようですが、ソプチャクの失脚にともなって第一副市長の座から下りることになります。 1996年8月にロシア連邦大統領府総務局副局長に就任します。 1997年に大統領府副長官になり、98年には大統領府第一副長官になります。99年の3月には安全保障会議書記を兼任し、8月には第一副首相に就任します。 1999年の12月31日にエリツィン大統領が辞任して大統領代行となり、1999年の5月にロシア大統領に就任しました。 最後のほうはエリツィン大統領が次々に閣僚を変えていった時期ですが、それにしても能力を見出されてどんどん地位の階段を上っていったのがよくわかると思いました。 ← 次回(12/13)へ ← ロシア語とロシア事情Uの目次へ |