記者・文責 並河岳史 今週も社会福祉学部の学生は実習のため欠席していました。そのせいもあって、本筋から離れた内容をたくさん聞けました。 11/28 に一部修正 先日、黒岩先生はロシア文学会という学会に出席してきたそうです。 ロシア文学会が取り扱う内容やテーマはファジイ(あいまい)だそうで、語学、哲学から歴史や文化に踏み込んだものまで発表されるらしいです。 会員は全国で約500人ほど。学会としては少ないほうだそうです。英米文学とかなら、ジャンルごとに1000人以上の会員がいる学会があるとか。 なぜロシア文学会の会員が少ないのかというと、やはり人気がないというのもあるでしょう。しかし、それだけでもないのです。ロシア文学会には、発足当初から変わっていない規約が二つだけあるそうです。一つ目は「ロシア語・ロシア文学を学び、日本文化の向上に寄与する」というもので、もう一つは「会員の入会は、現会員二名の推薦による」というものだそうです。「会員二名の推薦」と規約に明記されているからには、気軽に誰でも推薦していいものではないという意味合いも含まれているわけで、そのへんの学部生が気軽に入れる学会ではありません。黒岩先生が出た日の出席者の平均年齢は65歳ほどだったそうで、なおさら学生には近づきにくいものがあります。 同じく学会といっても、たとえば記者が先週末に行ってきた「教育と地域の情報化を考えるシンポジウム」は、発表者は20代から最年長で72歳という感じで、出席者の平均年齢は30代前半ぐらいでした。第一部の発表の後に食事とイベント・飲みがはいって、さらに第二部、第三部の発表と続いていきました。全体的にアットホームな雰囲気で、会場にはコンピューターのネットワークが敷設されていて、それを通じて記者も何度か質問をしました。火曜の5限にロシア事情を受けている秋山(記者の友人)などは、別の学会ですが発表経験もあります。ソフトにはそういう学生がけっこう混じっています。というか、記者も壇上でしゃべる側に立ちたいです。 ロシア文学会は、あまりそういう雰囲気ではないそうです。黒岩先生は寄稿集の前書きを読み上げてくれましたが、この文面にもすでに「暗い」と感じさせるものがありました。暗い、という表現はあまり的確ではありませんが、まあ、歴史の重みや厚みを感じさせる、と評してもいいような雰囲気でしょうか。 ロシア研究家たちは、いや、ロシア関連の研究者に限らずアメリカ・イギリスもそうですが、そういった研究は常に国際情勢の影響を受けてきました。具体的な話は出なかったので記者の憶測ですが、その国との関係が悪化したり良くなったりすると、周りの目はもちろん、予算や研究費などにも響いてくるのかもしれません。英米文学会も戦時中はかなりの圧迫を受けたそうです。戦後は西側の国とは関係が好転して、今では暗い影は感じられませんが、ロシア文学会はそうはいかないようです。真顔でアカなどという単語を発する人がたくさんいた時代には、ロシアを研究しているというだけで「そういう」目で見られたりもしたのでしょう。上に書いたように「新規入会は会員2名の推薦による」という規約があるのは、公安警察に関わっている人間を入れないようにするためでもあったそうです。今でも、この規約が見直される動きはないということです。 全国の大学等でロシア語を教えている方々を対象にしたアンケートが実施され、その結果が黒岩先生の手元にも返ってきたそうです。 中でも先生の目を引いたのが、アンケートの中に「どうすればロシア語をもっとよく教えることができるか」という設問だそうです。複数回答式とはいえ、なんと回答者の6割が「日本人の対露感情の好転」と答えていました。それ以外の理由はそれぞれ2割ぐらいのものがいろいろあったそうです。それにしても、自分の力量だとか大学のカリキュラムとか、そういうのではなくロシアに対する国民の感情(あるいはイメージ)が問題だ、というのが日本でロシア語を教えている方々の本音なのでしょう。黒岩先生の口からも、何度かそういったニュアンスの言葉を聞いたような気がします。 しかし、いつの時代もロシアは日本で小さな扱いを受けていたかというとそうではなくて、冷戦構造に組み込まれる以前はそうでもなかったようです。ロシア革命を逃れて亡命してきた非共産主義のロシア人エリートが日本の大学で教えていた時期もあり、二葉亭四迷が残したツルゲーネフの翻訳「あいびき」「初恋」などは非常に高い水準の訳がなされていたということです。 それにしても、人が語学を学ぶには何が必要なのでしょうか。 人は何のために語学を学ぶのか、言いかえてもいいかもしれません。 黒岩先生が言うには「語学は実学でなければうまく身につかないのかもしれない」そうです。 今でのロシア語を教える人が、勉強のためにアメリカやイギリスの軍学校に研修に行くことがあるそうです。そこでは、イデオロギー的にも「すごい」内容のテキストが使われているそうです。ロシアではこういうふうに人権が圧迫され、人々は自由のない生活を強いられている、というようなイデオロギーじみた例ばかり出てくる教材とか。あるいは、スホーイだとかミグだとかの、ロシアの戦闘機の性能など軍事知識を多分にまじえながらロシア語を学ぶ教材もあるそうです。もちろん軍人を対象にしたものですが。 これらは、文部省検定を通ったような教科書で教えられるよりも、だいぶ成果が上がるらしいです。 やはり現実に関わりのある形で習うと、きちんとした動機付けがあって学習意欲が違ってくるのでしょうか。記者がそんな教材でロシア語教育を受けたとしたら、きっと反発するでしょうが、考えさせられる部分もあるだろうし、そのぶん強く印象に残るだろうと思います。本当は、身近なロシア語を話す友達ともっと仲良くなりたい、みたいな動機付けが理想的なんですけどね。 でも、中学から毎週何時間も使って習っている日本の英語教育がろくな結果を出していないのは、現実に活かしようがないから、という要因が含まれているように思えるのは確かです。 戦前の日本は、仮想敵国の言葉や文化や思考法を学ぶ意味で語学教育を行なうこともありました。軍人や士官候補生を対象にした英語学校をはじめ、同様の目的で開かれた露清学校もあり、生徒は真剣に学んでいたようです。そうした学校は、諜報員の養成なども目的にしていました。 満州にあったハルビン学院では、まず一年文法などをきっちりやったあと、生徒たちはハルビンに住むロシア人の家にホームステイしてロシア語を学びました。当時のハルビンは国際的な都市で、ロシア革命の際に亡命してきたロシア人も多く住んでいました。黒岩先生の知人にも、ハルビン学院でロシア語を学び、旧ロシア貴族の家で作法を習った人もいるそうです。 また、陸軍幼年学校→士官学校→同大学とロシア語教育が盛んだった頃もあったそうで、言うまでもなく諜報部員の養成を目的としていました。現在では日本は諜報活動は行わないと対外的に言っていますが、積極的にそういう活動をしていた頃もあったわけです。日本の諜報機関の中に満州鉄道調査部という組織があって、ロシア方面に対しても活発に諜報活動を行っていたそうです。 ソビエト軍の捕虜になった日本人の大半はやがて釈放されましたが、約2000人の軍関係者は11年もの間シベリアに抑留されました。その中にも黒岩先生の知人がいたそうです。日本軍の士官たちは、なぜか国家反逆罪(ソビエトに対する反逆罪)で裁かれました。そして、ソビエト人の政治犯と一緒に収容されました。囚人たちには新聞が与えられましたが、囚人たちに与えられたのは1部だけだったので、自然と誰かが朗読してみんながそれを聞くという形ができあがったようです。朗読するのはソビエト人でした。先生の知人はソビエト人の早口が聞き取りづらかったので、いつも読んでいる人の近くに寄って、新聞を裏から読んでいたそうです。そのため、日本に帰ってからもしばらくは、ロシア語の文章は逆さから見たほうが早く読めたそうです。記者としては、収容所の生活がどのようなものだったのか、ということのほうに興味がありましたが、授業では触れませんでした。 また、黒岩先生が「私は日本の盛岡に住んでいる」というようなことを、軍学校で日本語を学んだロシア人に言ったりすると 「モリオカか。あの近くには三沢基地があって、配置されているのはファントム3が何機と・・・」 というようなことを言われるそうです。実学でしょうか。 また、冷戦時代によくソビエトの戦闘機が日本の領空ぎりぎりまで飛行してきた頃、対応してスクランブル(緊急発進)をかけて飛んだ自衛隊のパイロットは、「それ以上進入すると貴機は日本の領空に入る。速やかに機種を北に向けて転進せよ」というような内容のロシア語だけはきちんとしゃべれたそうですが、今は忘れてしまったといいます。やはり、実学なのでしょうか。 語学は、実学として学んだほうがはるかに学習効果が上がるそうです。昔は外国語はだいたい実学として学ばれていたそうですが、今の日本では教養というふうにとらえられていて、まるで日曜日のカルチャーセンターみたいなノリだからうまくいかない、といいます。 日本人がロシアを知らないのと同様に、ロシア人も日本をよく知らないそうです。 以前にクリントンとエリツィンが会談したときに、エリツィンが「日本人はダー(YES)と言うときにニエット(NO)と言い、ニエットと言うときにダーという」というようなことを発言しました。誰かが吹き込んだのだとも思われますが、ロシア人の日本に対する理解も、日本人のロシアに対する理解と同様に、足りないものなのでしょう。 「親日でなくていい、知日であってほしい」 そんなことを先生は言いました。 筆者の世代では、物心ついてすぐにソビエト連邦が崩壊しました。そのため、ロシアに対して「広いばかりで落ちぶれてしまった」というような印象を、上の世代の人よりも強く持っていると思われます。しかし、実際にソビエト国民としてロシアで生きていた人にとっては 「今もロシア人のメンタリティに残っている」 ということを、先生は今までの授業でもたびたび強調してきました。 世界が東西に分かれていた時代に、ソビエト連邦は東側の頂点に立って西欧諸国と対立してきました。 資本主義か、共産主義か、というイデオロギーが争点だったわけですが、自分たちは正しくて、相手は絶対に間違っている、という態度で互いに対立していたので、それは必然的に人々の生活や文化にも影響を及ぼしました。 1930年頃からソビエト連邦の芸術・文化を支配したのが「無葛藤理論」でした。葛藤がない、つまり全て正しいという確信に満ちた落ち着いた態度、それこそがソビエト連邦にふさわしいという論でした。そのために、ソビエト連邦の芸術家やメディアに携わっている人々は文化的抑圧を受けました。社会主義は正しく、人々は幸せなのだから、そこに迷いは存在しない、という姿勢を否定するような表現は許されませんでした。いわゆる現代美術とか前衛芸術の展覧会を開くことは許されませんでした。もしそこに迷いがあるとするなばら、それは「善か、よりよい善か」というそれだけだ、それが「社会主義リアリズム」だ、という姿勢をソビエトは対外的に示したがっていました。もちろん、そんなのはリアリズムではなかったのでしょうが。 共産主義は、資本主義よりも新しい思想、あるいはイデオロギーでした。資本主義は起源がはっきりしないので、思想とは言わないかもしれません。いずれにせよ、すでにあった資本主義社会を間違っていると感じたマルクス(ドイツ人)の思想を元に、まだ資本主義にも到達していなかった専制政治のロシアで革命が起こり、共産主義による統治が実現しました。 共産党は「革命は必然だ」という姿勢をとりました。今まで少しずつ進歩してきた人類の流れの中の一つのステップだという意味合いなのでしょう。それに対して西側諸国は「革命は偶発的に起こった誤りだった」という態度をとりました。資本主義こそが正しい、あるべき姿なのだと。しかし、資本主義が皆を幸せにするすばらしいものだとは資本主義国家に住む記者としてもあまり思わないし、共産主義もまたそうなのでしょう。 そもそも、共産主義がソビエト連邦において正しく実践されていたかどうかには疑問が残ります。1920年代には内戦が終結したばかりで、共産党は「戦時共産主義」なるものを打ち出し、農村から食糧を無理やり奪って餓死者を出したりしました。中学校の社会科で習った集団農場「コルホーズ」や「ソフホーズ」は、軍隊の力で強制的に導入されたものでした。自分の物を取り上げられる(共有させられる)ぐらいならと、家畜を全部殺してしまった農民もいたそうです。 ソ連は第二次世界大戦で非常に多くの犠牲者を出しながらなんとか勝利し、1949年にはアメリカに次いで原爆を開発し、53年には水爆の開発に成功しました。その年に、粛清を繰り返しながらも意志を持ってソビエト連邦を導いてきたスターリンが死亡しました。その死後に共産党第一書記の座に就いたのはフルシチョフでした。 フルシチョフは1956年の党大会でスターリンを批判しました。それが間接的にいくつかの独立紛争や動乱を招きましたが、ソビエトは軍事力でそれらを押さえつけます。1961年には世界が最も核戦争に近づいたとされるキューバ危機が起こります。革命が起こって共産主義化したキューバに、ソビエトがミサイル基地を建設しようとしました。キューバはカリブ海の国で、アメリカ東海岸のすぐ近くにあります。当時のミサイルでもアメリカ全土が核の射程圏内に入ってしまうのを無視できずに、アメリカ大統領ケネディは艦隊を派遣して核ミサイルの搬入を阻止しようとしました。最終的にはフルシチョフが折れて、核戦争は回避されました。しかし、共産圏諸国の目には、キューバ危機はソビエトの敗北と映りました。 これらの失敗を理由にフルシチョフは冒険主義そして降伏主義と批判され、1964年に失脚しました。 ← 次回(11/22)へ ← ロシア語とロシア事情Uの目次へ |