記者・文責 並河岳史 今週と来週は社会福祉学部の実習があるために受講者が少なく、いつもより空いている席が多かったです。 比較的前のほうに座っていた人達がいなくなったため、受講者の多くが後ろのほうの席に固まってしまいました。教える側としては、不思議な距離感です。近くにいたほうが話がよく聞けるに違いないのに、まるで逃げているかのように後ろの席に固まっている。この授業が嫌なら来なければいいのですが、別に嫌というわけでもないらしい。 「アンバランスな空間が人を不安にさせる」 そう言って黒岩先生はこんな話をはじめました。 先生の研究室(総合政策棟3F東側)からはソフトの講義の様子がよく見えるそうです。そこでは、講師がしゃべっているのに、学生はみんな後ろのほうの席に座って聞いているそうです。せっかく授業を受けるのに、なぜそんな学習効率の悪いことをするのか。 「あれはなんで?」 「いや、前のほうに座っている人もいますよ。真ん中が空白地帯になることもあります」 「ああ、そう」 なんというか、記者としては席の取り方は心理的なものだと思います。 理論的に言えば、学習するのは自分のためであって、それをいやいや仕方なくやる、というのは甘えでしかありません。しかし現実には、いらない授業が多いのも事実でしょう。単位のためにしかたなく受けている講義が、筆者にもいくつかあります、あるいは、単純にその講師が嫌いなのかもしれないし、あるいは強制的に授業を受けさせられてきた高校までに身についた習性かもしれません。 別の話になりますが、この大学の教員の間に「セクハラ防止マニュアル」が配られているそうです。学生の体を触るな、とかそういうのばかりではなく、不用意に学生を自分の研究室に呼ぶな、とか、学生がいる時は研究室のドアを開けておけ、というようなものもあるそうです。なんというか、笑ってしまいます。それとも、笑い事ではないのでしょうか。 人と人との距離感の取り方は、個人によって違いますが、文化によっても異なるようです。日本人はわりと離れた距離感で接しあうことが多いですが、外国では当たり前のように思いきり顔を近づけて話されることもあるらしく、黒岩先生でも「ひく」ことがあるそうです。 またもや教科書の話からはじまります。世界史Bです。 ロシア革命はいくつかの事件が複合的にからみあっていて、全体として「ロシア革命」と呼ばれています。そのいくつかの事件のうち特に大きなものとして11月7日の10月革命があります。 これがなぜか「11月革命」と教科書に記述されていました。 当時、ロシアはローマ時代から伝わるユリウス暦を採用していました。太陽暦の11月7日はユリウス暦の10月25日にあたります。だからといって、10月でもいいわけではありません。「11月革命」というのは、対応するロシア語の固有名詞がある、記念日の名前なのです。勝手に書きかえていいものではないと思うのですが。 歴史の説明に入ります。 ロシア革命というのは、民衆が共産主義を求めて立ち上がった、などというものではなく、民衆の暴動に乗じたクーデターといったほうがしっくりくるもののようです。 革命前のロシアの状況は、都市人口が全体の15%、識字率が28%というものでした。当時のヨーロッパ諸国がどれくらいだったのかは授業で触れなかったのでよくわかりませんが、現在の第三世界の水準にも劣るものであることは確かです。 政治形態はいまだ専制政治で、ツァーリ(皇帝)が政治・軍事を司っていて、司法・立法の区別もあいまいでした。国威発揚のための日露戦争の戦果もパッとせず、第一次世界大戦でもかつてない兵員を無理やり動員したわりに華々しい戦果は上がらず、国民の不満が募っていました。 また、皇帝の末子の病気を治したとされる怪僧ラスプーチンなる者が、皇后の威を借りて宮廷を荒らしていました。ロシアは倒れるべく乱れていました。 国民の不満をなだめるため、1905年の第一革命の後、議会(ドゥーマ)が創設されました。政党として社会革命党、社会民主労働党、立憲君主党などがありました。レーニンが属していたのは社会労働党でした。その中にあったボルシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)のうち、レーニンはボルシェビキを率いていました。ただし、ボルシェビキ(多数派)というのは名ばかりで、実際は党内でも少数の過激派だったようです。 ドゥーマで選出された二人目の首相ストルイピンがやがてドゥーマを解散させてしまいます。国民の不満は再び高まりまっていきました。 第一次世界大戦でロシアで徴兵されたのは1500万人、そのうち500万人が死んだり負傷したりしました。兵員を確保するために、今まで兵役を免除されていた中央アジアのイスラム圏で徴兵しようとして叛乱が起こりました。 レーニンは、帝国主義の時代は終わりだと見ていました。そして、第一次大戦に投じられている兵力を国内に向けることによって内乱を起こそうと考えました。何度も国を追われ、スウェーデンに亡命して数ヵ月後に戻ってきたりしながらも、レーニンは活動を続けました。レーニンの主張は次の2つでした。 ・ 戦争を終結させる ・ すべての土地を農民に これらは現実味のない絵空事と当時の人にとらえられがちでしたが、そのわかりやすさに好感を持たれていました。 やがて不満を持った兵士達が団結し「労兵ソビエト」という組織ができました。ソビエト、というのは評議会という意味です。しかし、全兵士の意思を反映するシステムなどあるはずがなく、一部の将兵が実権を握っていたのでしょう。レーニンはこのソビエトに大きな影響力を持ちました。 やがてレーニンは武装蜂起して、ロマノフ王朝を倒します。これが10月革命です。 10月革命の直後に議会(ドゥーマ)で選挙が行なわれます。この時点でも社会革命党が第一党となり、レーニン率いる社会民主労働党は敗れます。レーニンは武力に物を言わせて議会を解散し、憲法を制定しました。以後、ドゥーマは消滅し、ソビエト時代の議会は評議会(ソビエト)でした。ちなみにソビエト崩壊後の今のロシア下院には、ドゥーマという名称が復活しています。おそらく上院はソビエトなのでしょうが。 他に時代とともに名称が変わった物として、サンクトペテルブルグという都市があります。これは、ピョートル大帝が建設した都市で、その名にちなんで(ピョートル→ペテル)名付けられたのですが、後半のブルグというのは都あるいは城という意味のドイツ語からとったもので、第一次世界大戦でドイツと戦った時にペテログラードと改名されました。ロシア革命後は、王朝時代の王の名を嫌ってレニングラード(レーニンにちなんでいる)に改名されました。ソビエト崩壊後の現在は、当初のサンクトペテルブルグに戻っています。 ← 次回(11/15)へ ← ロシア語とロシア事情Uの目次へ |