記者・文責 並河岳史 前の授業の繰り返しのようですが、国後島を含む北方領土は領有が確定していない土地です。ロシアはそれらをロシア領だと主張し、事実上支配しているわけですが、日本政府はロシアの主張を認めず、現状をロシアの不当な占拠状態だと主張しています。 国の主張とは別に北方四島に渡りたい日本人(元住民など)もいます。しかし、国同士の主張の食い違いによって、長い間渡航は実現されませんでした。それは、渡るためにビザ(国査証)を取得するかどうかという問題があったからです。 ロシア側によるとそこはロシア領なのですから、国境を渡る以上ビザの提示が求められます。しかし、日本政府によるとそこは日本領なのですから、北方領土にロシアの主権を認めるような行為は受け入れられないのです。そのため、日本人が北方領土に渡ることは日本政府によって禁じられていました。 ビザなし渡航が開始されたのは1992年でした。北方四島へのビザなし渡航の対価として日本がロシア側に認めたのは、北方四島の島民(ロシア人)の北海道へのビザなし渡航でした。これによって、ロシアは北方領土の日本の主権を認めたわけではないという姿勢を保ったのです。 とにかくビザなし渡航による交流は始まりました。船による行き来になったわけですが、北方四島の海域は潮の流れが強くてて、冬に渡るのは無理でした。秋でも波が高い日には、択捉島のすぐそばまで行きながら入港をあきらめて引き返すこともあったそうです。 飛行機によっての行き来のほうが明らかに便利だったわけですが、都合が悪い点もありました。それは、空の管制権の問題です。海上の国境は、さほど厳密に決まっているわけではありません。国連海洋法条約(1994年11月から発効)が定める領海は12海里で、200海里が排他的経済水域とされていますが、すべての国が批准しているわけではないし、二国間協定で変則的に権利が定まっている海域も数多くあります。 しかし、空についてはそうはいきません。空の権利などというものが主張されはじめたのはせいぜい百年前からのことで、海ほど歴史を背負っていないのではっきりとした線を引きやすいし、軍事的な重要度は海に劣りません。空の管轄権については非常に厳密に決められていて、いいかげんな空の交通はありえないのです。 結局、あいまいな部分を残しながら日本がロシアの航空管制権を認める形で航空機での行き来がはじまりました。ただし、空の管轄権は認めましたが四島の領有権を放棄したわけではありません。領有している国とは異なる国家が管制権を持っている空域もまた少なくないのです。たとえば沖縄県の与那国島の上空は台湾が管制権を持っています。 そして北海道と北方四島との間をはじめて飛んだ旅客機に、黒岩先生は乗って国後島に渡りました。先の10月29日、岩手県立大学は大学祭に盛り上がり、このページの記者の並河はうどんの生地を伸ばしていた頃でしょうか。 飛んだ旅客機はロシアの物でパイロットもロシア人でした。国後島の空港は滑走路の質が悪く、日本のパイロットは誰も飛びたがらなかったそうです。 日露戦争終結後、アメリカのポーツマスで講和条約が結ばれたのですが、日清戦争の際に莫大な賠償金をもぎ取ったのに比べて日露戦争の講和の条件は華々しいものではありませんでした。 これに対して新聞は社説で弱腰外交と政府を叩き、全国各地でポーツマス条約の内容に講義して、全権大使の小村寿太郎をののしり、政府に条約を結びなおすことを要求する集会が開かれました。特に東京の日比谷で行なわれた集会では群集が暴徒と化して交番を焼くなどひどいありさまでした。 前の内容とも重なりますが、当時の日本とロシアの力関係などからポーツマス条約の内容は決して悪いものではありませんでした。それにも関わらず日本国民が条約の内容に激怒したのは、やはり情報が正しく国民に伝えられていなかったということもあるのでしょうが、記者が思い出したのはもっと別のことです。 第二次世界大戦中の標語として有名なものに「欲しがりません、勝つまでは」というのがあります。日露戦争後、日本人は勝ったから欲しがったのでしょう。右翼的な美化によると昔の人は慎み深く忍耐を美徳としていたようなイメージがありますが、必ずしもそんなことはないのだと思われます。 今の世代は、戦争といえば第二次世界大戦のことばかり教育されます。それは敗戦の記憶です。それによって「戦争をすれば負ける」という意識がどこかに根付くのかもしれません。維新後まだ敗北を知らない日本人の意識にしてみれば、戦争は勝つものであり、勝てば多くを手に入れられるものだったのでしょう。 ※ 記者の私見が混じっています 第一次世界大戦でロシアは連合国側に付いて戦っていたわけですが、大戦中にロシア革命が起こりました。レーニン率いるソビエト連邦はドイツと単独講和して、いち早く戦争から手を引きました。 マルクスが提唱した共産主義という思想は、資本主義の列強国の存在を揺るがしうるものでした。帝国主義や植民地政策の中で、労働者の生活は決して楽なものではなかったのです。 彼らが蜂起すればどうなるのか。「世界のどこかに労働者を中心にして動いている国がある」という事実が、自国の労働者階級にどういう影響を与えるのか。 当時の列強の支配者は新しく誕生したソビエトを危険だと見なしたのです。多くの国がソビエトを叩くために軍隊を送りました。領土的野心を持っていた日本はその中でも最も多くの兵力をシベリアに送り込みました。 戦争を行なうには名目が必要でした。当時もいちおうは国際法というものが機能しており、一方的な内政干渉は認められなかったのです。連合軍が使った大義名分は「第二次大戦中にロシアの捕虜となったチェコ軍の兵士が東シベリアに送られたのを保護する」というものでした。 シベリア出兵、と呼ばれてはいますが、実際はシベリア戦争でした。連合軍はシベリアの内陸深くまで軍を進めました。戦争中に樺太で日本人居留地がロシア人に襲撃される事件があり、それを理由に日本は樺太全島を保障占領したりもしました。 ロシアもまた内戦が決着していない状態でした。共産党勢力と旧王朝の残党がまだ戦い続けていたのです。共産党側が優勢で、王朝側の勢力を東シベリアまで追い込みましたが、これ以上追撃すると日本などの連合軍の軍隊とまともに対決する可能性がありました。共産党はいったん戦いをやめ、旧王朝勢力に東シベリア(イクルーツク以東)の統治を認めました。極東共和国と名付けられたこの国は、実質的には内国植民地であり、連合軍が撤退していったあとにソビエト連邦に吸収されます。 1925年に日ソ基本条約が調印され、国交が回復し、日本は北サハリンから撤兵しました。 ← 次回(11/8)へ ← ロシア語とロシア事情Uの目次へ |