記者・文責 並河岳史 「戦後処理」について修正 11/1 前回、教科書に記述された日露通好条約締結の年号が間違っている、というようなことを言いましたが、どうやらそれは誤りではなく、わざとそうしているようです。 明治以前まで、日本は西暦(太陽暦)ではなく、今では旧暦と呼ばれている太陰暦を用いていました。太陰暦の正月は2月の上旬にあるため、現在の正月とずれてしまいます。 歴史の教科書は、西暦で表した年(1192年など)と旧暦(寛永4年など)の両方を使って年表を表しています。どちらかに統一すればわかりやすいのですが、そういうわけにもいかないようです。 問題の日露通好条約(教科書表記では日露和親条約)の締結ですが、これは1855年の2月7日に行なわれました。これは安政元年(嘉永7年)の出来事なのですが、1955年の一年間の大半は安政2年であるため、教科書では安政2年に1955年は対応付けられています。教科書は日本の元号(旧暦)を規準にしているため、安政元年に対応している1854年ということにされたのです。なんというか、芯が通っていないような印象を受けてしまいます。 前回、教科書について黒岩先生はいろいろと言いましたが、19冊の日本史Aの教科書を調べてみたところ北方領土問題について書かれているのは12冊でした。つまり、残りの7冊では北方領土については何も触れられていなかったのです。また、日本とロシアが結んだ最初の条約である日露通好条約は、「通好条約」というのが文書にも残っている正式名称であるにもかかわらず、19冊中19冊全部が日露「和親条約」と記していました。これはアメリカと結んだ日米和親条約にならってのことらしいのですが、やはりいいかげんな話です。 太平洋戦争について振り返る、とはどういうことなのでしょうか。 夏などにニュースの話題になったり、歴史の教科書のコラム欄にある内容はだいたい決まっています。第一に、日本がアジアに対して行なった支配行為です。従軍慰安婦、強制労働などがよく取り上げられます。第二としては、戦時中の日本の内地の様子です。空襲におびえて食料も不足していた、というような話もよく取り上げられています。 現在もアジア諸国から、日本の太平洋戦争についての認識について抗議の声明が出たりします。元従軍慰安婦から謝罪や賠償金を求められたりもしています。日本軍の兵士として徴用されたにもかかわらず、戦後は外国籍となったため退役金が出なかったケースなど、さまざまな問題が提起されています。これらの問題は、国家としてではなく個人として、国家である日本政府へ投げかけられた戦後処理の問題です。 日本政府は、補償問題については、戦後の平和条約や各国との二国間条約によって国家同士の間では決着済みの事項なので、自らの属する国家に対して賠償を求めてくれということも可能でしょう。しかし、人道的見地や、アジア諸国の国民感情、そして、戦後じゅうぶんに解明されなかった戦争被害の実態を考慮するならば、「解決済み」と一蹴することは難しくもあります。とはいえ、国家が個々人に対し謝罪したり賠償したりというのが難しいのも事実です。世界大戦中の人権蹂躙のケースは膨大な数で、内容もさまざまですから、個別の謝罪と賠償を始めると際限がなくなる恐れがあります。 日本は過去の侵略戦争と植民地支配の非を認め、日本が悪かったということで各国との合意がなされています。その合意にそって日本は戦後、経済援助などさまざまな形で一応の誠意は示してきたと考えています。 慰安婦問題に代表される戦後処理の諸問題は、日本とアジア諸国の間で解決されるべき国際問題ですが、あくまで個人から日本政府に向けられたものです。一方、日本といまだ平和条約を結んでいない、つまり戦争について国家レベルでの最終決着が達成されていない国があります。 これがロシアで、日ソ共同宣言で国交は回復したものの、国境線がいまだ画定していません。また、北朝鮮とは国交樹立すらできていません。この2つの国家とはつまり、戦後処理としてまだ未処理な状態なのです。しかし、ニュースでもそれほど扱われません。むしろ従軍慰安婦問題などのほうが教科書の扱いも大きいのです。国家史という視点から見ると、ロシアと北朝鮮との間に残った戦後処理が軽視されているのは、どこかおかしい気がします。 「三国通覧図説」を著した林子平が1791年に「海国兵談」という著作を発表しました。その内容は、日本の海防は長崎にだけ集中している、長崎の海岸には大砲などが多く配備されているが、その他の海岸は無防備なままだ、江戸を守るためには安房・相模(現在の房総半島、静岡)の防備強化が欠かせない、日本が外国の脅威にさらされている、という内容でした。下田にペリーがやってくる50年前に書かれた先進的な著作だったと言えるでしょう。ただ、林子平は時の権力によって謹慎処分とされます。賄賂で有名ですが先進的で考えの広かった田沼意次が失脚し、潔癖で謹厳な松平定信が老中に就いた頃でした。松平定信は、林子平の思想は人心を惑わすものと考えました。無理のないことと言えばそれまでですが。 プチャーチンが3度目に来航したのは嘉永7年の10月15日。11月3日に第一回目の交渉が勘定奉行の川路聖謨との間で行なわれました。その翌日の11月4日に安政の東海大地震が起こり、その津波によってプチャーチンが乗ってきたディアナ号は岸壁に叩きつけられ船体が大破してしまいます。その状態で、プチャーチンは医者を連れて川路聖謨を見舞い、けが人の治療を申し出ました。政治的な配慮からか川路はそれを断ったようです。地震が多くの人が死んで縁起が悪いということで元号が安政に改元されたのは11月27日でした。最終的に通好条約が結ばれるのは翌年の2月7日になります。 ← 次回(11/1)へ ← ロシア語とロシア事情Uの目次へ |