10/11  10:30 - 12:00

記者・文責 並河岳史


 この記事は2000年度後期の講義について、殴り書きのメモからうろ覚えで書いたものです。恥ずかしながら、授業内容をちゃんと覚えていなかった隙間を、私自身の偏見で埋めて書いてました。
 その不適切な箇所についてToshy's Culture Centreの管理人さんに間違いのご指摘のメールを頂きました。
 歴史的により適切な記述に修正したい気持ちはありますが、2年前の記事を書き換える事は「講義の所感をまとめる」というプロジェクトの趣旨に合わない上、何より知識不足で、適切に書き直せる自信がありません。
 そこで、ご指摘のメールをお送りいただいた方のサイトにリンクを貼らせていただくことで、不完全ながらも対処とさせていただきました。
 今後はこのようなことがないよう折を見て勉強します。また、はっきりわかっていないことを事実であるかのように(しかも先生の名前を借りて)書かないよう気をつけます。
 ご指摘いただきましたToshy's Culture Centreの管理人さんに御礼を、講義いただきました黒岩先生と今までに読んでいただきました方々に謝罪を申し上げます。済みませんでした。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/tsu.htm
(第二部・幕末日露交渉史と通訳キセリョフ善六に当該記述があります)

2003/2/9
並河岳史

論文の課題について

 前期の書評に続いて、後期も文章を書く課題が出されました。
 自分で設定したテーマにそってロシア関連の文献を調べて、わかったことをまとめるというものです。
 提出期限は来年の1月ですが、いつ提出しても構いません。早めに提出した人は、授業の最後のほうに15〜20分ぐらい時間をとってプレゼンテーションすることができます。全員が発表できるだけの時間はないので、早い者勝ち(?)です。
 字数は4000〜6000字ぐらい。「見出し」や「注」を付けて論文としての体裁を整えること。内容はあくまで調べたことをメインとして、自分の考察は一割程度にとどめる。
 論文の書き方についての参考書として、黒岩先生は「知の技法」を挙げました。
 これは東京大学の教養学部の「基礎演習」という授業のために編集されたテキストで、いわゆる教科書でありながら一般にもよく売れた本だそうです。県立大のメディアセンターにもあるとのことなので、並河も借りてきました。
 現在読んでいます(10/12)。読み終えたらここに何か書きます。
 なんと、メディアセンターから借りた本を紛失しました。
 ネットワーク論に持っていって、共通棟105に置き忘れたのですが、見つかりません。たぶん弁償することになりそうです。

   「知の技法」 1994年初版。東京大学出版会より刊行。執筆者は18人で、編者は小林康夫・船曳建夫。


日露交渉史 「日本からの漂流者」

 ロシア側に残っている記録によると、日本からロシアへの最初の漂流者は、1695年の伝兵衛をはじめとする15人でした。
 当時の日本はまだ江戸時代の中期でした。日本は鎖国をしており、オランダとの貿易が長崎でのみ行なわれていました。各藩の密貿易を防ぎ貿易の利を幕府が独占するため、大きな船(特に外洋を航行できる船)を作ることは禁じられていました。そのため、国内の荷を運ぶ船も陸地を見ながらの沿岸航海しかできず、それさえも海が荒れるとしばしば船が流されました。
 当時、ロシアはシベリアやアリューシャン列島からアラスカまでを勢力圏としていました。そこでとれる海獣などの毛皮をヨーロッパ圏に運んで利益を得ていたロシアは、水や食糧や資材を補給するために寄港できる港を必要としていました。また、日本からの漂流民がマルコ・ポーロばりに日本のことを誇張して伝えたため、ロシアは交易の相手としても日本に興味を抱きました。
 その後、何十人もの漂流者がロシアに流れ着きましたが、彼らはロシアで皇帝に謁見を許されるなどそれなりの扱いを受け、教養のある者は日本語学校で日本語を教える機会を与えられました。
 1783年にロシアに拾われた大黒屋光太夫が、1792年に漂流者としてはじめて日本に帰されました。交通が現在ほど発達していない時代に漂流者を送り届けるというのは、かなりの労力がかかることでした。ロシアがそれをしたのは、光太夫の強い希望もあったそうですが、日本と通商関係を結びたいという狙いがあったからです。


日露交渉史 「ロシアの使節団」

 使節団を率いていたのはアダム・ラクスマンで、皇帝の親書こそ持っていませんでしたが、シベリア総督が書いた書状を携えていました。
 根室に来航した使節団は、最悪の扱いを受けました。港に建てられた粗末な小屋で半年も幕府の返事を待つように言われて、大黒屋光太夫ら漂流者も受け取ってもらえませんでした。この半年の間に光太夫の一行の中の一人が死にました。やがて江戸から返ってきた返事は「根室では外国との交渉はできないから、長崎へ行ってくれ」でした。
 これは、当時の日本の役人が責任逃れのたらい回しをしたとしか解釈できません。
 侮辱に等しい扱いでした。宣戦布告されてもしかたがないほどです。
 しかし、1804年にロシアは二度目の使節団を日本に派遣します。この使節団を率いていたレザノフは、ロシア皇帝の親書を預けられていました。使節団は、前回の失敗に学んで長崎に来航しました。
 今回も使節団は半年待たされました。その間ずっと沖に停泊したままで、上陸することは許されませんでした。どうしても上陸させてほしいと申し入れた使節団に対して、長崎奉行所は海辺にわずかにスペースを用意しました。その周りは垣根でびっしりと覆われて、どこからも見えないようになっていました。
 皇帝の親書を持っていながらこんな扱いを受けたのに、使節団は辛抱強く返事を待ちました。やがて江戸から返答が届きました。「日本はオランダ以外との貿易はできない」という内容でした。
 使節団代表のレザノフは怒り狂いました。いくら無知とはいえ、日本のやったことは当時の国際的な常識や礼儀を踏みにじる行為でした。「日本人の居住地を襲って略奪しても構わないか」という許可を求める書状をレザノフは皇帝に送りました。しかし、極東からロシアの首都まで、長崎から江戸の何倍の距離があります。皇帝からの返事が来る前に、レザノフの部下が半ば独断という形で樺太の日本人居住地を襲撃しました。
 1822年にディアナ号の艦長ゴロヴニンが、国後島での測量中に日本人に捕らえられました。ゴロヴニンは函館に送られ、牢に入れられます。その報復としてディアナ号の副艦長のリコルドは、国後沖で高田屋嘉兵衛を捕らえました。
 高田屋は当時の北海道での交易権を独占的に握っていた回船問屋で、函館奉行所や松前藩に対しても力を持っていました。その働きかけによるものなのか、ゴロヴニンと高田屋嘉兵衛は1813年に江戸幕府を直接介さないロシアとの交渉の末に解放されました。その際、ロシア側はレザノフの部下の日本人居住地襲撃は皇帝の意を受けたものではなかった、と言明しました。

 このあたりに登場する人物名は並河(記者)も微妙に聞いたことがあります。北方謙三の「林蔵の貌」という小説を読んだためと思われます。ただし、同じ歴史小説といってもエンターテイメント性を重視したフィクションなので、司馬遼太郎の本(記者は「竜馬がゆく」しか知らないけど)とは比べ物にならないでしょう。司馬遼太郎の「菜の花の沖」はそのうち読みたい。
日露交渉史 「日本の開国」

 浦賀に来航したアメリカのペリーの艦隊については、おそらくみんな知っていることでしょう。
 何の前触れもなしにいきなり軍艦で現れるというのは、ロシアのやりかたとは全く違った、格下の国に対する見下したやりかただったわけですが、結局そうしてはじめて日本は閉ざしていた外国との交流を再開しました。
 当時の日本にはアメリカの乱暴なやりかたのほうがふさわしかったということなのでしょう。イソップが書いた物語に「北風と太陽」というのがありますが、時には北風が勝つこともあるようです。


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