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「ヒトラーの長き影」第六章
【連載回数 第7回】
第3回目授業の内容
「ヒトラーの長き影」第六章 抵抗活動の賛美
●大衆的な支持を得られなかった抵抗運動
ドイツの抵抗活動に対するドイツ国民の抵抗活動に対する意識
その比較対象としてイタリアが取り上げられているが、両国の違いは歴然としたものがある。
イタリアは、その憲法の中に「抵抗活動から生まれた共和国」とあるように、ファシズムに対する抵抗運動が国家のアイデンティティを形成する一要因となっているほどであるが、それに対し、ドイツにおける抵抗活動はまったく成果のないまま終わった。
イタリアのファシズムに対する抵抗、ドイツのナチズムに対する抵抗と、両国の間には、よく似た抵抗運動の図式が成り立つような環境があったにもかかわらず、これほどの差が出でしまっているのは、両国の国民性が関係しているようである。
その国民性とは、ドイツの「上意に対する盲従」という根強い伝統にあったようだ。
それがひいては国家に楯突くこと=祖国に対する犯罪ということにしてしまう。
●裏切り者か英雄か・・・ヒトラー暗殺未遂事件
ナチに対して当初から断固たる抵抗を組織した集団はドイツ共産党(KPD)だけだったが、この党をつぶし、社会民主党(SPD)を非合法化し労働組合を消滅させることでもっとも強力な反対組織の基盤は取り除かれていた。
共産党員36万人の半数近くにあたる15万人は、1933年〜1945年の12年間で刑務所、懲役場、強制収容所などに送られ、2万人は殺された。
教会でさえ、ユダヤ人に対する迫害に対し一度も抗議することはなく、それどころかナチスのユダヤ人安楽死計画に深く関与していた。
(ここからは積極的に話してはいけない
戦後も、協会は殺人者たち −その中にはアイヒマンもいた− を助け、ラテンアメリカへの逃亡をお膳立てしている
ここまで。)
その中で、神学者のディードリヒ・ボンヘッファーや、ショル兄弟を中心としたミュンヘンの青年グループである「白バラ」などが、キリスト教に基づいた政治的動機から抵抗を個々に企てた。
しかし、ワイマル共和国の政治的、経済的、軍事的エリートたちは、ヒトラーに協調した。
当時、ヒトラーを転覆できる可能性を持った勢力があるとすると、それは国防軍だけだった。
しかし、彼らがヒトラーに対し抵抗したのは、ドイツという国家の威信を保つためであり、ドイツを戦争で自滅に追い込まないようにするためであった。
その中で、最後の抵抗運動を主導したのが、伯爵フォン・シュタウフェンベルク大佐を取り巻く部隊将校たちであった。
彼らは1944年7月20日、ヒトラーの暗殺を試みたが未遂に終わる。
この事件に関与していた面々を、「裏切り者」とするか「英雄」とするかということで長い論争があったが、最終的にはキリスト教的抵抗で殺された面々とともに「もうひとつのドイツを代表する人々」として称える、ということになった。
西ドイツの再軍備にとって、この事件に代表されるヒトラーに対する抵抗は、もうひとつのドイツを外側に対し証拠立てるとともに、新国防軍にとってお荷物でもあった。
ヒトラーに反抗する行動そのものは英雄視するが、反抗を企てるような信用できない将校は必要ない、ということである。
●共産党員による抵抗運動の評価
60年代のはじめ以来、西ドイツの抵抗運動の中には、それまでの英雄視的な解釈とは違った、根本から批判的なものが増える。60年代の終わり頃には、労働者による抵抗も賛美されるようになり、社会民主党・自由民主党の連合政権時代には、戦時中における社会民主党と労働組合の反ナチ抵抗活動は承認されやすかったが、これに対し、共産党の抵抗活動は正しく評価されにくかった。
80年代には、7月20日の共謀者たちに見える協調と拒否、あるいは忠誠と反抗との独特な混交が注目されだした。
壁の崩壊後は、状況はさらに変化する。
1994年には、7月20日事件の関与者の子孫たちが問題の主導権を握り、シュタウフェンベルク伯爵の息子であるフランツ・ルードヴィヒは、共産党員抵抗者を称える展示物が撤去されない限り「ドイツ抵抗記念館」および7月20日の祝典には行かないと脅しをかけた。
コール首相は1988年の抵抗運動で共産党員を称えることに文句を付けていた。
このような反共主義は、冷戦時のほぼ公式の国民感情であった。
例にあるような行動の決め手になっているのは、抵抗活動自体ではなく、その活動家と共産主義の対立関係にあった。このことは、フリッツ・ブリングマンの例でもはっきりしている。
●忘れられた抵抗者
最後までナチスと戦ったにもかかわらず、ドイツで認められなかったのは共産党員ばかりではなかった。
ハイデルベルク大学の数学者で経済学者だったエーミール・ユーリウス・グンベル、アウシュヴィッツの近くで亜鉛精錬所所長をしていたエドゥアルト・シュルテ、外交官のフリッツ・コルベなどである。
グンベルは、第一次世界大戦を引き起こしたドイツの責任をはっきりと口にし、20年代における帝国国防軍の密かな軍拡を糾弾し、極右秘密結社による政治的暗殺を暴露することをためらわなかった少数の者の人であるが、そのため、愛国的右翼に最も嫌われる人物の一人だった。
そのため、彼は殺害の脅迫にまで及ぶ無数の攻撃、大学において保証されていた地位の断念、最終的には亡命というところまで追い詰められた。
シュルテは、ユダヤ人問題の最終解決に向けた計画を聞き、生命の危険を賭してまでこの計画を在米ユダヤ人組織に伝えた。
しかし、連合国はこのユダヤ人大量殺戮を止めるどころか妨害さえもしなかった。
彼の死後、未亡人は旧ドイツ当方地域における損害に対し、国家補償の支払いを要求したが、その申し出は棄却された。その理由は、連合国側に情報を渡した亡き夫の行為が犯罪にあたるから、というものだった。
コルベは、ベルンにあるアメリカの諜報機関と連絡をとりつづけ、さまざまな情報をアメリカに流した。アメリカにとってはまさに最高の情報提供者であった。
しかし、キリスト教、共産主義的抵抗運動の生き残りたちは彼を売国奴とみなし、50年代のはじめにも、ボンに新外務省が建設され、戦前の旧役人たちが協力を求められた時にもコルベからの応募は冷たく一蹴された。
●「脱走兵の復権の意味」
ただの一兵卒では反対勢力を組織することはできず、自身の態度を表現できる唯一の可能性は逃亡だけであった。しかし、すべてを裏切っても、忠誠を誓ったものだけは裏切ることができない、という思いや不安も多くの脱走兵にとっては一役買っていた。
脱走には、軍にとどまって生き長らえようとするよりももっと勇気と強固な人格を要することが多かった。
それは、脱走兵には、従来のあらゆる軍事裁判制度を青ざめさせるほどの過酷な見せしめ軍事法廷が待っていたからである。
1991年9月11日、連邦社会保障裁判所は、「敵前逃亡」をして処刑されたドイツ兵の未亡人に始めて遺族年金を認めた。
このようになるまで46年もかかった。
80年代には、脱走兵に対する記念碑が立てられたり、通りの名称が軍事法廷の犠牲者から採られたりしたが、脱走兵に対する公的年金が拒絶されているなどの矛盾もある。
90年代になっても、7月20日事件の関与者と、ヒトラー崇拝者は向き合っている。ネオナチにとって事件の関与者は祖国の裏切り者であるのだが、これに対し、ヒトラーの元で騎士十字勲章を受け取ったものに対しては、何の汚点も指摘されないという矛盾もある。
さらに、7月20日の犠牲者たちはそれを評価する者の主義や主張によって、見方が大きく違ってしまっている。
国家護持を第一に考え、事件に関わった者の多くがナチ政権に関与していた事実などが瑣末なこととみなされるなど、事件が正しく評価されていないように思われる。
7月20日事件が、ドイツの過去を道徳的につなぎとめる絆としてドイツにとって役に立っている。