メディア論(担当:鈴木克明)99.8.11.
個人レポート「メディア論を振り返って」

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権藤 広海

学んだこと1:自分で考える

「それは何か」

 面白くも無いことは考えたくない。人生に役に立つとは思えない。そんな考えがいつもある。しかし、メディアには、そのようなこととは関係無く、サッチー問題から、コソボ問題までありとあらゆる情報が流れている。そして、ワイドショーを見ては「あれはサッチーが嘘をついてるぜ!」とか「コソボ? 内戦? とっととやめちまえばいいのに。 なんでアメリカが空爆してるんだ?」と無思考状態でそれを消化したつもりでいる。そして、テポドンが盛岡に落ちてきて「あんな国つぶしてしまえ! アメリカは原爆打ち込めばいいんだ!」となる。
 いろいろなことを考える時間があるときには、その考えたことは必要ではなく、考える時間が無いときに、十分に考えたことが必要になる。だからこそ、日ごろから、いろいろなことについて、自分なりの意見がもてるように考えることが必要だと思う。
 

「なぜ重要だと思ったのか」

 メディア論の授業の反応がテーマによって、ぜんぜん違ったから。


学んだこと2:知識を付けなければならない。

「それは何か」

「自分で考える」ためには、そのための材料である、知識が必要だ。しかも、それはある偏った(分野的に偏ったという意味と、右派、左派のような偏りも)身につけ方ではなく、できるだけ考えを偏らせないものでなければならない。孫子曰く「己を知り、相手を知らば、百戦危うからず。」だ。
 

「なぜ重要だと思ったのか」

 「最近の学生の学力・知識レベルが低い」と言われる。たしかにその通りだと思う。コンピュータのことが分かっていても、国際関係に関してちっとも分かっていない、というのは私も含めかなりのものだ。メディア論で「だまされないぞ!」と思い、「メディアにだまされないためには作り手の立場になって考えるんだ!」と思ったとしても、結局、最低限、その分野に関して知識が無ければ、だまされるか、「自分で自分をだます」結果になると思う。


学んだこと3:メディアにだまされてもいいかな?

「それは何か」

 結局、メディアにだまされない、あるいは流されないと言うことは完全にはできない。だとすれば、いっそのこと「メディアにだまされる。」方がプラスの面が大きいと思う。広告宣伝やプロパガンダといったものに対して、例えそれが「作られた世界」だと分かっていても引かれてしまうのは、それが自分たちにとってとても心地よいことだからではないだろうか。
 それならば、いっそ「だまされた」と思わずにだまされつづけるのもいいのではないか。「だまされた」ことによっておきる、戦争や敵対憎悪などはメディアによって引き起こされるものではなく、多くは内なる自分に多くの問題があるからだと思う。
 
 

「なぜ重要だと思ったのか」

 「メディアにだまされないようにする。」というのは、とても内向き、非生産的な行動だと思う。「メディアにだまされなかった。」という充足感ぐらいではないか。